執り成す者になる(抜粋)       

                                  2025.3.23

イエスは、悔い改めにふさわしい実を結ぶということで、ぶどう園に植えられた、いちじくの木の話をなさい ました。
  ある人がブドウ園を持っていました。その人は自分のぶどう園にいちじくの木を植えました。何年かして、 収穫の時となり、その人は実を取りにやってきました。しかし、実は一つもなっていませんでした。ぶどう園  の主人はがっかりして、園丁を呼びつけて、実を結ばない、いちじくを切り倒すように命じました。「もう3 年もの間、このいちじくの木に実を探してきているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ土  地をふさがせておくのか」(ルカ1317)と言いました。
 主人は、場塞ぎだから切り倒してしまえと命じたのです。

 しかし、園丁は主人に言いました。「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って 、肥やしをやってみます。そうすれば、来年実がなるかもしれません。もし、それでもだめなら切り倒してく ださい」(ルカ1389)と主人に執り成しました。彼は実を結ばないいちじくの木に対する希望を  捨てませんでした。この「来年は実がなるかもしれません」という言葉に番人のいちじくに対する愛と期待 が込められています。彼はいちじくの木をあきらめることができないのです。

このぶどう園の番人の姿は、罪深い私たちのために、執り成し続けておられる主イエスの姿と重なります 。私たちは、主イエスの執り成しによって救われました。しかし、弱い私たちは、誘惑に負けてしまいます。  主は、弱い私たちのために執り成しておられます(へブル725)。主イエスは私たちをあきらめるこ とが出来ないのです。私たちは悔い改めて、日々主に立ち返る者でありたいと思います。何年経っても、 うわべだけの信者で、信仰の実を結ばないなら、場塞ぎのいちじくの木と何ら変わるところがありません。  主から与えられた人生を感謝と賛美の日々に変えられるように、祈る者でありたいと思います。
 そして、 私たちも、人々のために、祈る者でありたいと思います。終わりの時が近づいている時、ひとり  でも多くの人が救われるように祈る者でありたいと思います。この人は祈っても無駄だとは思わず、忍耐 強く祈り続ける者でありたいと思います。                                            三田増雄師