人々の罪を負うために(説教抜粋)

                          2026.1.11

当時、イスラエルの人々は、ローマの圧政に苦しんでいました。自分たちを開放してくれるメシア、すなわちキリストを待ち望んでいました。
 人々は、もしかしたら、バプテスマのヨハネがメシア(キリスト)ではないかと心の中で思っていました(ルカ315)。それほど、ヨハネは、人々に期待されていたのです。
 ヨハネは、私はメシアではないときっぱりと否定しました。「私の後からその方が来られる。私はその方の履物を脱がせる値打ちもない」と言いました。履物のひもを解いて脱がせる仕事は奴隷の仕事でした。
 私たちは人から褒められると、つい、いい気になってしまいます。言葉に出さなくても、自分ってこんなにすばらしかったんだと思いこんでしまいます。人々の、自分に対する評価には感謝しても、真実の自分を見つめることを忘れてはいけないと思います。私たちは、自分の信仰深さではなく、主イエスを人々に証しするものでありたいと思います。主イエスが、罪はかく、頽(くずお)れやすい自分に何をして「くださったかを語るものでありたいです。
 ヨハネは「自分はメシアではない。キリストではない。」とはっきりと言いました。そして「自分は、預言者イザヤが、預言しているように、荒れ野で「主の道を備えよ」と叫ぶ者の声だ」「人々にやがて来られるメシアを指し示すものだ」と言いました(イザヤ4034)。ヨハネはやがて来られるメシアを迎える心の準備をすること、すなわち、罪を悔い改めることを解いたのです。 三田増雄師